1960年代後半、世界を席巻した「ベトナム反戦」を知っていますか? 「ベトコン」は? 南ベトナム解放民族戦線は? ホー・チ・ミンは? 歴史上、世界の盟主・アメリカを唯一敗北させたベトナム人民。日本でも多くの青年・女性たちは、ベトナム人民をさまざまな形で支援した。その原点・事実を描いた3点の写真集・本をUPした。(編集子)
information新着情報
- 2015年06月18日
- 坪井善明さんが描いた「現代のヴェトナムを理解するための出版物」
- 2014年11月05日
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- 2014年10月20日
- 戦場の記憶、『ベトナム戦争―民衆にとっての戦場』(吉澤南著)、吉川弘文館、1999年5月1日。
- 2014年10月20日
- オーラル・ヒストリーの実践と同時代史研究への挑戦――吉沢南の仕事を手がかりに、【特集】社会科学研究とオーラル・ヒストリー(3)大門正克、大原社会問題研究所雑誌 No.589/2007.12
- 2014年10月20日
- ベトナム戦争の頃:『資料ベトナム解放史』(全3巻)の刊行。1970年9月~1971年3月刊行。労働旬報社
- 2014年10月10日
- 10・21国際反戦デーの紹介。
- 2014年10月10日
- 「ベトナム反戦の原点」の3冊のPDF復刻版――『ベトナム黒書』、『歴史の告発書』、『CUCHI』。
- 2014年10月10日
- 現代の罪と罰、(ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会編『歴史の告発書』、1967年)「沼田稲次郎著作目録――人と学問の歩み」、沼田稲次郎・書に序す――団結と平和と人間の尊厳と》より。
- 2014年10月10日
- ベ平連のベトナム反戦、「ベ平連関連参考文献・資料―最近の文献に出ている「ベ平連」評価 ・「ベ平連」についての記述」をUP。
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ベトナム黒書
編著者名日本AA連帯委員会編
判型A5並製
労働旬報社
ページ数145
発行日 1966年10月 |
歴史の告発書―アメリカの戦争犯罪に対する北ベトナムからの報告 (1967年)
ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪調査日本委員会 編
判型A5並製 労働旬報社
発行日 1967年1月
PDF復刻版 |
CUCHI
判型A5ヨコ並製
1960―1975
ベトナムで発行
カメラ 楊清風
PDF復刻版 |
『ベトナム黒書』より
- 紹介文
- ナパーム弾や黄燐弾、枯れ葉剤によって森林は焼かれ、人間は泡のかたまりになるまで燃えつづける。この血に飢えたアメリカの黒い魔の手によって、言語に絶する残虐非道な行為が繰り返されていた。その戦争犯罪の実態を、あますところなく暴いたベトナム人民による“黒書”。バートランド・ラッセル「自由と社会正義の名において告発する」収録。(旬報社HPより)
http://www.junposha.com/library/?_page=book_contents&sys_id=35
現代世界での「最大の戦争犯罪」を許さず
ベトナム人民はびくともしない
序文
ペトナム戦争は、いよいよ重大な段階にすすんできた。戦争が南ベトナムから北ベトナムへ「拡大」(エスカレート)していく過程で、アメリカ帝国主義とグエン・カオ・キ=カイライ政権、ならびにアメリカの衛星国が、いかに国際協定を無視し、人道上ゆるすことのできない戦争犯罪を重ねているか。そこでは、ナパーム弾と黄燐弾は、被爆者が泡のかたまりになるまで燃えつづける。それでもまだ従来のナパーム弾では、ジャングルを焼きつくすことができないといって、さらに熱度の高い、新しいナパーム弾をつくっている。
南ベトナムの母と子どもが被爆したとき、母は力をふるってそれを払いのけても、子供の腕にナパームの破片が附着して燃えつづけている。痛さに泣き叫ぶ子の腕から、それを払いすてようとすると、子供の皮膚が、メラメラとむけて、バッタリと倒れて死んでしまう。パイナップル弾、グワーパ弾、ベトナムの人たちのいうクワ・オゥイ弾(オゥィという果物の形をしたもの)、 これらの親子爆弾は搾裂すると、二~三○○個のポールが飛び散って、鋼鉄の破片が人間の肉体に突きささってとりだせない。
本書に収めたバートランド・ラッセル卿の「アメリカの良心にたいするアピール」でも、「北ベトナムのいちばん人口の密集した一つの州に十三ヵ月の間に一億片のかみそりのように鋭利な鋼鉄片が落された」といっている。安全かみそりの一枚の刃の始末にさえ、わたしたちは気を使うのだが、戦闘に直接関係のない老人や婦人や子供の肉体をこまかく切りきざんでいく、この悪魔の爪の横行を黙認していていいであろうか。
これもまた、本書に収めた南ベトナムの「戦犯黒書」によると、アメリカがつかっている化学毒薬DNCは、オレンジ色をして、火薬のにおいをふりまきながら空から降ってくるが、これを身体にうけると、母体は乳の出がとまり、妊娠中の婦人は流産するという。さらに、南ベトナムで機動細菌化学戦争をたくらんでいる研究斑は、日本の神奈川県から移動したのである、と指摘されている。
わたしたちは南ベトナム、北ベトナムがアメリカ侵略軍の殺人的な新兵器のほしいままな実験場にされていることにたいして、心からの憤激を抑えることができない。まさに、ヒトラー以上の「現代最大の戦争犯罪」の地獄絵がくりひろげられているのである。ペトナム戦争をこの深部でとらえることが必要である。
しかも、ペトナム人民は、かつてそうであったように、いまも完全に一体となって、残忍非道な侵略者にたいして、英雄的なたたかいをつづけ、困難をのりこえて勝利してい。
ベトナム人民の決戦決勝のこのエネルギーは、どこからでてくるのであろうか。この根源にふれることなしには、ペトナム戦争の本質と性格を理解できないし、ベトナム人民への支援、連帯の任務も十分に果せないであろう。ペトナム人民のたたかいを内面から支えているものと、いまわたしたちが日本でアメリカ帝国主義およびこれに従属する佐藤政府にたいしてたたかっている立場とは、けっして無縁でない。無縁でないどころか、心からの共感と共鳴のなかで、共通のたたかいをともに勝ちぬこうとしているのである。
日本の労働者が10月21日を期し、ストライキ、まさに生産点での行動をもって、「現代最大の戦争犯罪者」と対決しようとしているのもそのためである。全国各地の職場、学校、地域などで、いっせいにすすめられているこれらの行動の波の高まりのなかでこそ、わたしたちはペトナム戦争の本質をはっきりと身をもってつかむことができるのである。
ハノイ、ハイフォン爆撃直後、7月17日のアピールで、ホー・チミン主席は「戦争がさらに5年、10年、20年、いやそれ以上つづこうとも、ハノイ、ハイフォンその他の都市や企業が破壊されようとも、ペトナム人民はびくともしない」と述べている。これは決して単なる強がりではない。かつて、フランス植民地主義者とたたかって勝ち、日本ファシズムとたたかって勝ち、いまアメリカ帝国主義とたたかって勝ちつつあるベトナム人民は、たたかいのなかで、きたえられた強い信念と、行動力と政治意識を身につけている。
正しい目標をかかげ、正しい指導のもとに、一致団結してたたかえば、アメリカ帝国主義とそのカイライ政権に断じてうち勝つことができる、というのがベトナム人民のゆるぎない立場である.
「ベトナム人民は平和を愛する。この平和は其の平和、つまり独立と自由のもとでの平和であって、ごまかしの平和、アメリカがいっているような平和ではない」(7・17アピール)。
わたしたちは、アメリカ帝国主義者の血にうえた黒い魔の手が、いかにベトナムで独立と自由を侵害し、非人道的きわまる手段で痍虐行為をとりつづけているかの実態をあますところなくあばき、これとたたかっている英雄的なベトナム人民の立場に共感するとともに、行動をもって支援、連帯する運動をさらに拡大し、強化しなければならない。この本がそういうたたかいの武器として、行動の一つの指針として、ひろく活用されることを期待してやまない。
さいごに、本書の編訳・刊行にあたって、多忙のなかを執筆と嘲訳その他で積極的に協力された、その他労働旬報杜の皆さんに心から謝意を表する次第である。
1966年9月27日
日本アジア・アフリカ連帯委員会
『CUCHI』より
『歴史の告発書』より
心からの親愛なあいさつをこめて
ホー・チ・ミン大統額からパートランド・ラッセル提唱の戦争犯罪国際法廷に関する準備会(1966・11・13~16 ロンドン)あての電文
アメリカの戦争犯罪人を糾弾するために、戦争犯罪国際法廷の開催を促進しつつあるあなた方のイニシアティーヴにたいして、祝意を愛します。
アメリカ帝国主義者たちは、ベトナムの民族的独立と平和をくつがえす戦争を拡大しつつあります。かれらはヒトラー=ファシストによって犯された犯罪よりも、さらにもっと凶悪な数々の凶暴行為と罪悪を犯しっりあります。
国際法延は、これらの犯罪を糾弾することによって、アメリカ侵略者に反対する世界的な憤りを促進するでありましょうし、また全世界すべての国ぐにの人民のあいだに、抗議連動をつよめて、このような犯罪的戦争をやめさせ、アメリカ合衆国とその手先きの軍隊をベトナムから撤退させる要求をひろがらせるでありましょう。
したがって国際法延は、正義と人民の民族自決の権利のために、世界的規模において重要さをもつ行動であります。
国際法廷は、人道と世界平和にたいする最大の敵、アメリカ帝国主義に反対する、世界の人びとの良心をめざませるに貢献するでしょう。
わがベトナム人民は、最後の勝利をかちとるまで闘うう決意をもっております。
われわれは、あなた方の高貴なイニシアティーヴを高く尊重し、心の底から完全な支持を送るものであります。ここに、われわれは熱烈な感謝の意を表明し、わが友人たちと国際法廷の諸メンバーにたいし、真心こめたあいさつをのべ、そしてこの法廷の事業が一大成功にすすむように、ねがうものであります。
心からの親愛なあいさつをこめて
1966年11月12日
ベトナム民主共和和国大統領
ホー・チ・ミン
ベトナム民主共和国ファム・バン・ドン首相から
日本人民へのメッセージ
1966年12月7日、アメリカの戦争犯罪調査委員会会長(厚生大臣)ファム・ゴヤク・タック博士より、兄弟的日本人民がアメリカ帝国主義のベトナムにおける侵略戦争と野蛮な戦争犯罪に反対するたたかいを強く推進していることをききました。
べトナム人民を代表し、また私個人として、ベトナム人民の反米救国のたたかいにたいする日本人民の熱烈なる支持と兄弟的な援助に心から御礼申し上げます。
われわれは日本人民のアメリカ帝国主義と国内反動勢力にたいする英雄的なたたかいが大きな勝利をかちとり、独立、民主、平和と繁栄の日本を建設されることを祈ります$。
ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪調査日本委員会がこの電文を公表するものです。
1966年12月7日 ハノイにて
ベトナム民主共和国甘粕
ファム・パン・ドン
現代の罪と罰
バートランド・ラッセル博士が自由と社会正義に関心をいだく一人として、アメリカ市民に対して行ったアッピールには心を動かす迫力がある。「自由のための戦場はワシントンンにあります。合衆国とその市民の品位をおとした戦争犯罪人――ジョンソン、ラスクおよびマクナマラに対するたたかいの中にあります」と訴える言葉は、日本人である私の魂をもゆり動かす。「自由のための戦場は東京にあります」ときこえてならない。アメリカ帝国主義のベトナム侵略の後方基地を提供している日本の戦争犯罪従犯者たちとの闘い――それは主犯たるアメリカ帝国主義に対する闘いでもある――のなかに日本の人民の世界史的な使命が存しているのである。その闘いを通してのみわれわれは世界法廷において訴追者となる資格をゆるされるのであろう。
日本の人民の50歳前後から上の年代者は、軍閥、ファシスト、独占資本のひきおこした満州事変以後の侵略戦争をどの段階においても無抵抗に見送ってしまったことに悔恨を感じ、アジアの被侵略国に対していつか償わねばならぬ負い目を意識している筈である。
ベトナム人民に対するアメリカ軍の言語に絶する残酷非道の暴行はまぎれもない犯罪であり、ベトナム民主共和国に対する無頼漢的無法な空爆と人民の殺傷も国際法廷によって罰せられるに値する攻撃にほかならぬ。このアメリカ帝国主義の悪魔の業に対する怒りと憤りとがむらむらと湧きおこらないとすれば、それは自らが悪魔の族であるからだ。人類の一人として、人間として、この戦争犯罪は裁かるべきだ、いな人間が自らの手によってそれを裁くべき法廷を国際的に創立すべきだと叫ばずにいられない。そしていまその法廷が創設せられつつあるのだ。戦犯裁判は現行犯についてなされた方がよい。
アメリカ帝国主義国家の強力な侵略軍に対するベトナム人民の英雄的戦闘は感激と胸をしめつけられる思いとを私に与えている。この抵抗と苦闘の貴重さは限りないものだ。民族としてその独立と自由のために死を賭するベトナム人民の偉大なたたかいを支援すること自体が、人類にとって絶対的に価値ある活動でなければならぬ。その意義を世界が自覚することによって20世紀の世界は永遠の生命をもつ。ベトナム人民のたたかいを支援して独立と自由とを勝利せしめ正義の貫徹を実証しうるかどうかが、いま20世紀の人類の良心に課せられた実践的課題でなければならぬ。そして私は、それが実現せられうる課題だと信じている。何故ならば、それは世界史的に必然なるものを自覚することによって自主的に、つまり自由に自かに課したものであり、それによって歴史の迂路をちぢめ、人類発展の歩度を早めようとする意味をもつものだからである。ベトナム人民の反帝独立の死闘を支援――それ自体が闘争を避けがたいことだ――する世界的な活動に積極的に参加することは、50歳年代の日本人にとって、またその一人である私にとっても、過去の無抵抗の負いめを償うチャンスであると思われるのだ。
アメリカ帝国主義国家の支配階級の戦争犯罪は実に今にはじまったことではない。第二次大戦において日本の降伏が必至であり、本土上空は完全にアメリカ空軍に支配されていた段階において、日本の無辜の人民の頭上に――太平洋上でも瀬戸内海の上でもなく、まさに広島、長崎の両都市の上空で――原爆を投下したのはアメリカ軍であり、トルーマン大統領がそれを許したのである。戦後日本の戦争犯罪者は文明と正義の名において訴追せられた。それはそれでよいことだ。戦争や侵略の犯罪性を明確ならしめて好戦的な支配者たちに警告し、さらには戦争といえども個人の非人道的な行為の犯罪性を阻却せず個人の責任を阻却しないことを国際法廷で明示し、歴史的文書に刻みこんだということは、それによって人類社会が平和を確立することができるならば良いことである。それはファシズム戦争にこりごりした人類の良心と知慧とが見出した平和と正義を守る国際政治的な方途であったといえよう。だが、戦後の国際法廷は、アメリカの犯した無抵抗の人民に対するジェノサイドの罪という最大の戦争犯罪について、犯罪責任者を訴追するという正義と衡平との府たるべき法廷にとって最も重要な責任を果たさないでおわったのである。もとより真珠湾の不法爆撃や侵略戦争によって手のよごれた日本の支配階級はその不公平と反正義とについて国際法廷を責める資格はなかったかもしれない。だが、日本の人民にはその資格があったのであり、いまもあるのである。
ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を訴追する国際法廷がいま準備されつつある。この法廷は世界で最強の軍事力と経済力とを有する帝国主義国家の大統領をも含めて被告席に立たせようとする法廷なのである。それは、いわゆる「力の裁き」の性格を払拭して、正義と人道と平和と自由と独立と、つまり人類が数千年の歴史のなかでみがきあげてきた至上の価値の視点に立つ裁きを行うに値する法廷でなければならない。もとより力の存しないところに裁きはありえない。だが、その力は価値に対立して語られる力ではなくて、価値を志向する世界各国の人民の力であり、武器なき力である。いいかえれば世界史を貫く理性的なるものあるいは必然的なるものの世界的自覚の力にほかならないのである。このような国際法廷によって下される断罪こそ、いうなれば神の裁きである。永遠にゆるされることのない――再評価されることのない――そういう最終の裁判がそこでは下されることになろう。
直視に堪えがたい写真の示しているように、ベトナム人民に対する残酷な殺りく虐待無謀極まる爆撃など、人間を虫けらのようにふみつぶすアメリカ侵略軍のやり方というものは、果たして帝国主義的侵略にとって不可避の宿命なのであろうか。ヒットラーのアウシュビッツは彼の狂気にのみ帰せられようか。ヒットラー以上といわれるアメリカ侵略軍の暴虐残虐はアメリカ帝国主義の狂気に憑かれた支配階級とその代弁者たる政治家軍人の狂気なのであろうか。もし人間を虫けらのように殺すことが帝国主義の宿命的狂気だとすれば、人類は帝国主義を弔り去るほかあるまい。そして地上から帝国主義が消失するまで、この国際的戦犯法廷は常設せられねばなるまい。
(ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会編『歴史の告発書』、1967年)
《「沼田稲次郎著作目録――人と学問の歩み」、沼田稲次郎・書に序す――団結と平和と人間の尊厳と》より。 http://e-kyodo.sakura.ne.jp/numata/syonijyosu.html
資料ベトナム解放史 全3巻 アジア・アフリカ研究所新着情報
1970年9月~1971年3月刊行。労働旬報社 (PDF版)
http://www.aaij.or.jp/mission_history/pdf/half_a_century_of_aaij.pdf
ベトナム戦争の頃:『資料ベトナム解放史』(全3巻)の刊行
In the Vietnam War Era
「序」
[略]
編纂計画から刊行までの経過
アジア・アフリカ研究所は、「北爆」開始直後の一九六五年四月の第四回研究所総会において「ベトナム戦争をめぐる当面の緊急事態についての声明」を発して、アメリカのベトナム侵略戦争およびこれにたいする日本政府の協力・加担に反対し、ベトナム人民のたたかいの全面的支持とベトナム人民と日本人民の連帯強化のため、研究活動、教宣活動を精力的に展開する決意を固め、それ以後、シンポジウムや研究会の開催、単行本の刊行、機関誌上の論文発表などをつうじていささか努力を傾けてきた。
しかし、六八年のベトナム人民の「テト攻勢」の大成果により解放闘争が画期的な段階に入り、さらにそれがアメリカ帝国主義自体の重大な危機を誘発し、逆に世界革命の進展に巨大な影響を及ぼしつつあることが明らかになるにつれ、単にいわゆる「ベトナム戦争」のみに視点を限るのではなしに、ベトナム人民の解放闘争の全歴史を広範な資料の集大成によって明確にすることが、ひとりベトナムのみならず、日本をもふくめた全アジア、全世界の今日と明日を展望するうえで、きわめて緊要であるという認識に達した。われわれはまた、かつて太平洋戦争末期にベトナムを占領し、抑圧と収奪により二〇〇万余のベトナム人民を餓死させた戦争責任、また、日本政府のアメリカのベトナム侵略戦争にたいする加担・協力を完全に阻止しえないことにたいする責任からしても、このような事業の遂行により日本人民とベトナム人民に奉仕することは、日本の学者・研究者として不可欠な任務であると確信した。しかも、内外を問わず、ベトナム人民の解放という視点からの広範な歴史的資料の集大成が欠如している、という事実に思いいたったとき、この事業にたいするわれわれの執心は一段と強まらざるをえなかったのである。しかしながら、この事業の実現、とくに発行をひき受けてくれる出版社を見出すことは容易なことではなかった。ようやくにして六八年秋、労働旬報社が採算を無視してこの厖大な仕事を引き受けてくれることになったため、編集委員、翻訳者集団より成る編纂体制を確立、後述の編集方針の策定、資料の蒐集、整理、翻訳、複写等の作業に取りくむ段取りに進むことができるようになった。さらに、その後の入念な校閲、校正等の作業をへてここに発刊するにいたったものである。
[略]
構成と内容
本書に収録した各種資料は日本語にして四百字詰原稿用紙約六〇〇〇枚にのぼり、そのうち約八割はベトナム語等外国語原文からの邦訳である。編纂者は、これらの厖大な資料を印刷に付するにあたって、これを全三巻に分冊し、第一~第三の 各巻および各巻内部の各部をほぼ時代順、時期順にしたがって配列することにし、また、前述のように各巻、各部の内部では、はじめにその時代、時期、局面の解説的役割をする資料を、つぎに各種第一次資料を収録することにした。
全三巻の構成は以下のとおりである。
第一巻 初期の解放闘争からディエンビエンフー作戦の勝利まで- 一九五四年五月(初期の解放闘争、インドシナ共産党結成、日・仏帝国主義の支配、「八月革命」、抗仏戦争)
第二巻 ジュネーブ会議から南ベトナム解放民族戦線の結成まで- 一九五四年五月~一九六末年一二月(ジュネーブ会議およびそれをめぐる動向、アメリカのジュネーブ協定じゅうりん、米=ゴ・ディン・ジェム独裁政権下の南ベトナム、抵抗闘争への胎動、日本の南ベトナム賠償)
第三巻 「特殊戦争」の開始~現在- 一九六一年~一九七〇年(「特殊戦争」の経過、「トンキン湾事件」、「局地戦争」への移行、「テト攻勢」、パリ会談、南ベトナム共和臨時革命政府の樹立、ラオス、カンボジアへの侵略の拡大とインドシナ三国人民の団結強化、ベトナム侵略戦争反対の国際的諸運動、日本政府のベトナム侵略戦争加担と国民の反対運動、各党、各団体の態度、国会論議等)
本書の特色
(1) 基本的な重要資料を網羅していること-とくにベトナムの政府、党、統一戦線等のオリジナルな資料が網羅されており、そのなかには日本ではじめて訳出された、しかも貴重なものがきわめて多い。たとえばチュオン・チン「八月革命」(英文)、チャン・フイ・リエウ監修「八月革命の記録」(ベトナム文)、「ベトナム労働党三五年史」(ベトナム文)、および日本帝国主義軍隊による戦争犯罪の記録である「日・仏支配下のベトナム社会」(ベトナム文)(以上本邦初訳)(以上第一巻所収)などはその一例である。また、「ジュネーブ協定」にしても、従来わが国では最終宣言、ベトナム停戦協定、アメリカの単独宣言ぐらいしか紹介されていなかったが、本書では関係諸宣言、諸協定、主要発言をベトナム民主共和国政府編纂の記録、中国、イギリス、ソ連等各政府の記録を照合して全部を収録した(第二巻所収)。
それによって読者は、もっとも正確で豊富なベトナム解放史の通史、史論に接することができる。たとえば、数千年来の解放史をまとめた「ベトナムの民族的伝統」「ベトナム労働党三五年史」、「同四〇年史」チュオン・チン「八月革命」、ボー・グエン・ザップ「人民の戦争、人民の軍隊」、その他ベトナム解放にかんする基本的文献、資料はすべて網羅されている。
(3)[略]
本書の編纂、刊行にあたってはじつに数多くの内外の人びとの協力援助をえた。とくに貴重な第一次資料の提供や編纂上の参考意見の提示などで支援を惜しまれなかったベトナム民主共和国対外文化協会ルー・クイ・キ氏をはじめ、同共和国政府、労働党、祖国戦線、南ベトナム解放民族戦線などベトナム人民の援助は絶大である。また、そのための連絡にあたってくださった星野力氏(共産党中央委員=当時ハノイ駐在代表)、渡辺豊氏(ハノイ駐在『赤旗』特派員)の労に負うところも多大である。
編纂方針の策定、資料の選択や配置の決定などにさいしては、編集委員たる平野義太郎(国際民主法律家協会副会長)、鈴木正四(愛知大学教授)、尾崎陞(前日本・ベトナム友好協会理事長)、陸井三郎(アメリカ研究所長)、斉藤玄(ベトナム人民支援センター常任理事)、土生長穂(AA研究所副所長)、寺本光朗(同副所長)があたった。また、ベトナム問題やベトナム語にかんする専門研究者の立場から資料借用に応じ、かつ助言を惜しまれなかった真保潤一郎氏、川本邦衛氏などの協力にまつことも多大であった。
さらに、厖大な量にのぼるベトナム語、英、仏、中各国語文の邦訳の仕事を担当して下さった尾崎庄太郎、川添登、秋山八郎、藤田和子、吉沢南、斎藤良和、帯金豊、後藤政子、河合恒生、岡倉徹志、辻山昭三、徳島達朗、平井文子、片柳量吉、高見元造の各氏のなみなみならぬ苦労に負うところも、いうまでもなく大きい。さらに、以上すべての作業にわたる統括的な実務を担当してくれた寺本光朗氏の献身的な努力は、それなしには本書の刊行は不可能であったほど貴重なものであった。また、邦訳とともに編集事務を担当していただいた藤田和子氏や訳文の校閲にあたった吉沢南、斎藤良和の両氏の努力に感謝する次第である。
最後に、本書の刊行をあえて引きうけてくれた労働旬報社の木檜哲夫代表、終始製作実務を担当し、奮闘してくれた編集部の石井次雄、飯島信吾両氏の寄与、貢献もまた筆紙につくしがたいものがあった。
ここに、本書の刊行を心から祝い、喜ぶとともに、本書刊行を実現するために全力をかたむけてくださった以上すべての方がたに改めて深い感謝をささげる次第である。本書が、日本人民のベトナム人民との戦闘的連帯のため、各界、各層の団体、活動家によって、また、日本のベトナム研究者、アジア研究者、国際問題研究者など、広く学者、研究者、ジャーナリストなどによって読まれ、活用されることを切に願うものである。
一九七〇年九月
アジア・アフリカ研究所を代表して
岡倉古志郎
編集委員
岡倉 古志郎
尾崎 陞
陸井 三郎
斎藤 玄
鈴木 正四
寺本 光朗
土生 長穂
平野 義太郎らは前述のように各巻、各部の冒頭にすえられ、そのあとに収録されている資料の理解を助けるものであるか[ママ]、同時に、全巻を通じてこれらの「解説」的資料だけを読むならば出所:『資料ベトナム解放史 第2巻』(1970年9月)、『同 第3巻』(1971年3月)「序」。
なお、『同 第1巻』(1970年11月)「序」では一部編集委員の氏名が欠落している。
注:『資料ベトナム解放史』全3巻(労働旬報社、1970-71年)の刊行は、アジア・アフリカ研究所の半世紀を彩る大事業だった。同書は、「ベトナム人民の立場に立ち、ベトナム人民の解放のたたかいの歴史と現状を明らかにするとの観点から、できるだけ豊富な資料を集大成すること」を「編集の基本方針」([略])の第一にかかげ、各巻、各部の冒頭には、つぎに収録される第一次資料等の解説的史料として、ベトナムの政府、党、統一戦線組織の諸文書等を適宜配するという構想で企画され、内外の協力を得てほぼ構想どおりに実現した。上下2段組、総ページ数2002頁、本邦初訳の重要文献資料を多数収録したこの『解放史』は、関連諸分野の学者、研究者だけでなく広く連帯運動やベトナム支援・反戦活動にたずさわる人びとからも歓迎された。
当時はアメリカのベトナムに対する侵略と支配の政策が破綻し、ニクソン政権は戦争の「ベトナム化」とラオス、カンボジアへの拡大によって「名誉ある撤退」を何とか計ろうとしていた。『資料ベトナム解放史』の刊行は、非政府・非営利の小さな学術組織として可能な最大限のベトナム支援活動であるとともに、中国・文化大革命の波及により少なからぬ数の創立以来の所員が退所した後、研究所がむしろベトナムのたたかいに支援されたことの例証でもあった。
1968年秋、出版社が労働旬報社に決まってからは、ベトナム語、英、仏、中国語からなる各国語文献資料の訳出作業が編集活動の中心になった。主な担当者は当時30歳の若手所員、藤田和子(英、仏語)と吉沢南(ベトナム語)だった。既訳文の原文との照合、校閲も手間ひまのかかる仕事だった。この作業の統括は、当時30代半ばの副所長、寺本光朗が事実上一人で負った。「序」にいう400字詰め原稿用紙6,000枚相当のマス目を埋める作業は約2年を要したが、列記された翻訳者、校閲者で報酬を期待していた者はまずいなかったのではないか。ベトナム戦争の頃はそんな時代だった。
『資料ベトナム解放史』第1-3巻をいま紐解くと、1975年のベトナム全土解放、1979年中国のベトナム侵攻、1991年のソ連崩壊、さらには30年を経過した米公文書の公開等により、企画編集段階では十分に実証できなかった諸問題の解明が急速にすすんだことを強く感じる。解放が現実に何をもたらし、何をもたらさなかったかについての学術的な考察も必要になっている。これらの問題にかんしては、いつの日か『資料ベトナム解放史』第4巻を上梓できることをのぞみたい。
但し、そのことは、1970年前後にアジア・アフリカ研究所が実現させたこの大部の『解放史』自体の評価を減ずるものではない。
刊行後40年が経過し、編集委員も翻訳者もその多くがすでに世を去られた。詳細な「序」と重ならないよう配慮しつつ、いまだに読みつがれ、引用されることの多い『資料ベトナム解放史』収録のいくつかの重要文献について、確認できる提供者と翻訳者の氏名を以下に記録しておく[原典の表記には若干の乱れが見られるが、いずれも「資料出典」のママとした]。
チャン・フイ・リエウ、グエン・ルオン・ビック、グエン・カック・ダム編『フランス・日本支配下のベトナム社会』(第一巻第二部「植民地支配下のベトナムと独立への道」第三章「日本ファシストのベトナム侵略」、pp.238-320)(原典:Tran Huy Lieu, Nguyen Khac Dam, Nguyen Luong Bichbien soan, Xa Hoi Viet Nam Trong Thoi Phap Nhat, Quyen Ⅰ, Ⅱ, Nha xuat ban Van Su Dia, Ha-Noi,1957)=提供者:土生長穂、翻訳者:吉沢南(後半部)。
チュオン・チン『八月革命』(第一巻第二部第四章「八月革命とベトナム民主共和国の成立」第一節「八月革命」、pp.322-351)(原典:Truong Chinh, The August Revolution (Second Edition), Hanoi,Foreign Languages Publishing House, 1962)= 提供者:阿部行蔵、翻訳者:藤田和子。
チュオン・チン『抗戦は勝利する』(第一巻第三部「対仏抗戦下のベトナム」第三節「抗戦はかならず勝利する」、pp.438-489)(原典:Truong Chinh, La Résistance Vaincra, Editions en languesetrangeres, Hanoi, 1960)=提供者:阿部行蔵、翻訳者:藤田和子。
[以上敬称略、藤田記]
『アジア・アフリカ研究』2010年第50巻第3号掲載。一部加筆修正。
1966年10月21日 ―総評が秋期闘争の第3次統一行動として、べトナム反戦を中心とするストライキを実施。48単産(産業別単一労働組合)約211万人がスト参加。91単産308万人が職場大会に参加。総評の内外への呼びかけに国内から350人近い各界知識人の支持声明が発表され、世界労働組合連盟をはじめ世界各国の労働組合からも連帯のメッセージがよせられ、以後この日は10・21国際反戦デーとなった。
「10.21反戦・平和を考える青年女性集会」(10.21国際反戦デーに因み)
石川県平和運動センター
http://i-peace-ishikawa.com/2013/10/22/
◇主催 北海道平和フォーラム
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年表[編集] (ウィキペディアより)
- 1966年10月21日 - 総評が秋期闘争の第3次統一行動として、べトナム反戦を中心とするストライキを実施。48単産(産業別単一労働組合)約211万人がスト参加。91単産308万人が職場大会に参加。総評の内外への呼びかけに国内から350人近い各界知識人の支持声明が発表され、世界労働組合連盟をはじめ世界各国の労働組合からも連帯のメッセージがよせられ、以後この日は10・21国際反戦デーとなった[2]。
- 1968年10月21日 - 18単産、76万人がストライキ、集会に456万人。46都道府県560ヵ所で集会とデモ。反日本共産党系学生ら、国会・防衛庁に侵入、新宿駅構内を占拠・放火、逮捕745人(うち騒乱罪適用450人、13人起訴)。
- 1969年10月21日 - 日本社会党・日本共産党の条件つき一日共闘で全国600か所86万人が統一行動。中央集会には8万人。反日本共産党系学生、各地でゲリラ活動、機動隊と衝突、1222人逮捕。
- 1970年10月21日 - 社共一日共闘、全国785ヵ所37万2千人が集会。社・共・総評など11団体の統一実行委員会主催中央集会に10万人。「公害追放」のスローガン初登場。全国全共闘・全国反戦共催集会1万3千人。べ平連7千人。
- 1971年10月21日 - 全国600か所150万人が集会。統一実行委員会主催の「中央大集会」に12万人。中核派系6300人、反中核派系6800人、革マル派3200人、べ平連など市民団体4700人が別々に集会。
- 1972年10月21日 - 47都道府県536ヵ所22万人。実行委主催の中央集会に10万人。新左翼各派は計1万人。
- 1973年10月21日 - 18団体主催全国統一行動横田大集会5万人。三沢基地包囲など全国39都道府県214会場で集会・デモ。中核派1200人、革マル派600人など9団体4300人が都内デモ。
- 1974年10月21日 - 核もちこみ糾弾・ジェラルド・R・フォードアメリカ合衆国大統領来日反対の全国統一行動。中央集会に7万人、458ヵ所230万人が集会。
- 1975年10月21日 - 第10回国際反戦デー。中央集会5万人。公明党参加とりやめ。全国523ヵ所、140万人。
- 1976年10月21日 - 全国349ヵ所73万人、中央集会に6万5千人。
- 1979年10月20日 - 明治公園での中央集会に2万人。全国397ヵ所80万人。
- 1980年10月20日 - 日米安保条約廃棄をかかげ、25都道府県で社・共統一集会。全実委と中実委2団体主催の中央集会に10万人参加。総評の新平和4原則をめぐり社共対立、1日共闘分裂寸前で維持される。
- 1981年10月20日 - 中央集会分裂。総評などの中央集会4万人(一部の妨害で中止)。10.21中実委主催中央集会、2万8千人、23道県で統一集会。
- 1982年10月21日 - 中央集会分裂、社会党系は2万8千人、共産党系は3万人。全国475ヵ所で集会、うち25道県で社・共統一集会。
- 1983年10月21日 - 社・総評など5千人、反核と反角を掲げて中央集会。中実委主催の中央集会に2万5千人。22県で統一集会。
- 1984年10月21日 - 総評など横須賀中央行動に2万人、中実委など東京で3万人が集会。15県で社・共共闘。
- 1985年10月21日 - 中央では中央実行委など6団体主催2万人。36道府県で共産党系独自集会、10県で社共統一集会[3]。
ベ平連関連参考文献・資料
http://www.jca.apc.org/beheiren/bunken.html
(
デザイン:和田 誠 「殺すな」の文字:岡本太郎)
最近の文献に出ている「ベ平連」評価 ・「ベ平連」についての記述 http://www.jca.apc.org/beheiren/saikinbunken.htm
1995年は戦後50年ということで、戦後史に関する書物が多数出版され、ベ平連に関連した文書も以後多数に出版されてきている。以下に、主として1995年以降、最近にいたるまでの文献に出ている「ベ平連」運動に関する評価の一部を抜粋して紹介する。各タイトルをクリックすれば、そのファイルに飛ぶ。
新しい紹介が上の順になっている。全文の紹介もいくつかはあるが、ほとんどはごく一部のみをあげている抄である。くれぐれも、以下のものだけで判断するのではなく、関心がある場合は必ず、原文に当たるよう、強調しておきたい。
引用する場合も、以下の文からではなく、各自の責任によって原典に当たってくださるよう、希望する。(担当者)
▽2014.10.20UP
▽著者略歴
1943年 東京に生まれる
1971年 東京都立大学大学院修士課程修了
現 職 茨城大学人文学部教授
〔主要著書〕(Amazonより)
『ハノイで考える』(東京大学出版会、1980年)
『戦争拡大の構図』(青木書店、1986年)
『私たちの中のアジアの戦争』(朝日新聞社、1986年)
『個(わたし)と共同性(わたしたち)』(東京大学出版会、1987年)
『ベトナム戦争と日本コ (岩波書店、1988年)
◆2001年没
2009年05月に装丁を変えて、新刊として出版されている。吉川弘文館、¥ 2,376
はじめに――戦場の記憶 (本サイトにUP)
アメリカ兵とベトナム兵/戦場体験/ゲリラ戦争
Ⅰ 起 源
長い戦争
フランスの戦争/四つの段階/遠い戦場/戦場のリアリズム
南ベトナムのアメリカ
「泥沼」論/拾い上げられた「破片」/「土着の反乱」/〝よそ者″/
米軍事顧問団/「新しいタイプの戦争」
メコン・デルタ
グエン:ティ・ディン/ベンチェの蜂起 一九六〇年/民衆武装の歴史的意味/素手から出発して/ジャングルに一輪の花
「ノロマのチビッコ野郎ども」
白兵戦/アプバックでの戦聞 一九六三年/破壊されたヘリコプター
Ⅱ アメリカの全面戦争
虚 偽
トンキン湾事件 一九六四年/「アメリカによる捏造」/一九六八年の聴聞会/隠された「あの電信」/既成事実の積み上げ
アメリカ化 一九六五年
「しっぺ返し」/持続的な「北爆」/政府内の異議申し立て/地上戦闘部隊の派遣/「彼らの戦争」から「アメリカの戦争」 へ
「北爆」下
ハノイを訪ねる/国家機密/爆撃目標/ハノイ爆撃/分散/「漸増」論対「無差別爆撃」論
Ⅱ 戦 場
北の戦場
花火の向こう側で/もっと苦痛を!/ソールズベリのファム・ヴァン・ドンの会見記/解決の道/日常/相互切り替え
南の戦場
「南爆」/競合地区/自然に根を張る戦闘力/自然環境破壊(エコ サイド
)/山の民・山の道/都市民衆/テロ/解放戦線/過渡的な権力へ
おわりにかえて――もう一つの戦場
告白/恐怖の逆襲/「心を引き裂きながら」/復讐と癒やし/学校での予備訓練/「多人種間戦争」
あとがき
はじめに――戦場の記憶
アメリカ兵とベトナム兵
アメリカのジャーナリストであるマイラ・マクファーソン (Myra MacPherson)は、ベトナム戦争時の派兵の数を政府が意図的にごまかそうとしていることから数字上の混乱が生じていると批判し、ベトナム・ラオス・カンボジアの直接の戦場、ならびにその近辺の陸海域で戦争に従事したアメリカ兵の数を三七八万人であったとしている。この数字は、ベトナム戦争時代の退役軍人九〇〇万人の内、ベトナム戦争の交戦地域に赴いた者を集計したものである〔マクファーソン一九九〇〕(以下、〔 〕は巻末の「参考資料」を参照)。ほかに、少な目の数字としてはアメリカ政府が発表した二八〇万人とか、三二〇万人とかいう数字がある。さらには、一九六一年から七三年までの延ベ人数として四〇〇万人以上をあげる場合もある。
どれが戦場を最も正確に反映した数字であるか判断しかねるが、三〇〇万人をくだらないアメリカ兵がベトナム戦争に直接にかかわったと考えてよいであろう。この内、最前線に立ったのは、実はそれほど多くはなく、だいたい三割ぐらいの数であったという。彼らはインドシナのジャングルの〝暗闇″とデルタの〝泥沼″を肌で体験し、ベトナムの兵士ならびに民衆と直接に戦闘を交えることになった。彼らは戦場における実行者であると同時に、戦死などの犠牲と災禍を最も集中的に被った。その他残りの兵士は、いわば支援活動を担当する後方勤務であった。しかし彼らの多くも戦場の凄惨な様子を直接あるいは間接に見聞したり、生々しい情報に接しえた人々であり、また戦争の災禍にさらされる危険も十分あった。
周知のように、この戦争で五万八〇〇〇名のアメリカ兵が死亡した。この死者の数の中には戦場における戦病死以外にも、友軍の誤爆・誤射による死者、前線ならびに後方基地での事故死なども含まれていた。
マクファーソンは一九七九年以降、ベトナム体験者五〇〇人以上にインタビューを試み、その証言を一冊の本にしたのが一九八一年のことである。そのインタビューに応じた多くの体験者たちは、「はじめて自分の気持ちを語ったのだと打ち明けて」、マクファーソンを「驚かせ」たのであった〔同上〕。
では、ベトナム側の被害はどのくらいであったか。実は、ベトナム側の被害を測定することは、さらにいっそう困難である。その理由は、戦場がベトナム全土であり、その期間が一〇年以上の長期にわたっており、さらにアメリカの攻撃が基本的に無差別であったために、軍人はともかくとして、民間人の死傷者を数え上げるのがきわめてむずかしい。また、戦争が終わってみれば、北ベトナムの兵士と民間人、あるいは南の解放戦線側の兵士や住民だけでなく、南ベトナム政府(サイゴン政府)軍の兵士や都市部の死者もまた戦争被害者である。したがって、こうした人たちの正確な集計は困難である。そこで、大雑把すぎてきわめて遺憾なことではあるが、戦争での死者は一百数十万人、あるいは二〇〇万人以上などと言われるのである。この内約一〇〇万人が兵士たち(正規軍ばかりでなく地方軍やゲリラの武装していた人々)という推計もあるから、民間人の死者がいかに莫大であったかがよく理解できよう。
さらにベトナムには今なお三〇万人以上の行方不明者がいる。生活の揚が戦場になるとはどういうことか、はたまたベトナム戦争がベトナムの民衆に何を強いたかを存分に示す数字である。戦死した戦友の遺体を埋めるとき、後で識別できるように空のペニシリンの容器に名札を入れて埋葬したが、戦後実際に掘り起こしてみると遺骨を確認できた例はわずかだった。死体を埋めた場所を探そうとしても、米軍機の爆撃で「地形そのものが変わってしま」って、場所を確かめようがない……、などなど理由は様々だ。アメリカ側はベトナムでの行方不明者(MIA)二千二百余名をさかんに問題にし、この捜索にベトナム側が誠意を示していないと非難した。しかしベトナムの民衆からは、米兵捜しばかり何故優先させるのか、との不満が絶えなかった〔一九九四年二月五日付け『朝日新聞』、水野孝昭特派員〕。
二年も前の話だが、筆者は一九九七年五月にシンガポールとペナン島に短い旅をした。冷房の利いたホテルの外では、街路に並ぶ大樹の、肢体のように肉感的な幹と分厚い葉が大粒の雨に打たれて重い音を立てていた。暗雲がビルの間を降りてきて、飽和した大気が体にまとわりついた。皮膚呼吸を押さえ込まれた。そう感じた時、突然、ベトナムのあの蒸し暑い大気を思い出し、ベトナム戦争の一つの舞台になったジャングルを連想した。その年四月の新学期から始めたばかりのベトナム戦争をテーマとする国際関係論の講義のことや、そろそろ手を着けなければと焦りを感じていたこの本のことが、話し相手もいなかった筆者を刺激したのかも知れない。皮膚感覚を通してベトナムが急に再接近してきた。ペナン島から戻ったシンガポール最後の夜に、筆者は市内のベトナム・レストランを探し出し、ベトナム料理を食べた。レストランのウエイトレスたちは、白い半袖のシャツとスカート姿のごく普通の格好をしていたが、中国人系のシンガポール人でもなければ、インド系、あるいはマレー系のそれでもなく、独特な雰囲気を醸し出していた。彼女たちは客のことなど一向に気にかける様子もなく、かたまって談笑していた。聞き耳を立てると、ベトナム語で興じている。サイゴン沖合、あるいはメコン・デルタからこのシンガポールまでは、ボートで一週間もあれば流れ着くであろう……。お腹をいっぱいにした筆者は、深夜の便で東京に戻るために、空港に向かった。
チャンギ空港には立派な本屋があり、寄航の際には、ここで東南アジア関係の本を買うのを常としていたが、この時も数冊の本を買い求めた。機内で、何の予備知識もないままに、その内から一冊の小冊子を取り出した。読み始めて、衝撃を受けた。その本は、パオ・ニン(Bao Ninh)という名の現代ベトナム人作家が書いたThe Sorrow of Warというベトナム戦争を主題とした小説(英訳)のようであった〔Bao-一九九四〕。主人公とおぼしきベトナム人民軍の戦士の戦場体験は、殺伐としていて異様で、時として幻想的で狂気がにじんでおり、女友達との関係もややエロチックに描かれていた。それらは、「抗米救国」という崇高な国事と衝突しかねない屈折したものとして表現されている。彼は「人民軍の英雄的な戦士」イメージとは少なからず懸け離れており、戦闘とその戦場は解放への活力と希望に輝いているどころか、あくまでも暗いのである。
筆者を驚かせたのは、旧北ベトナム出身で、戦場体験を持つ戦争世代の新しいこの作家が、二〇年たった今日、あの戦争をこのように振り返り、描こうとしている事実であった。彼――主人公、ならびに作家自身――にとって、アメリカ兵を待ち伏せしたジャングルは蒸し暑く不快で、物の怪(け)が排御(はいかい)する闇であった。
東京に戻って、筆者の不勉強を知った。この小説のベトナム語による原作は一九九一年に出版され、現地ベトナムで大評判になり、同年のベトナム作家協会賞を獲得した。その他方で、ベトナム人民軍の新聞などからは、戦争におけるベトナムの軍人ならびに民間人の苦しくも輝かしい歴史に泥を塗るものだとする、厳しい批判も浴び、それ故になお一層有名になった作品であり、作家であった。その後同年七月この小説は日本語訳も出版された〔パオ一九九七〕。
戦場体験
同じ戦場で両極の立場に立っていたアメリカ兵とベトナム兵が「初めて自分の気持ちを語る」気になった時の戦場の記憶のあり様、ならびにその表現の仕方は、似通っているようでもあり、あくまでも相反しているようでもある。いずれにしても、彼らそれぞれの戦場の記憶のあり様とその表現の仕方は、ベトナム戦争について最近私が模索している問題と深く関連しているように思える。本書においてどのような視点からベトナム戦争を取りあげようとしているかを明らかにするためにも、もう少し突っ込んで考えてみたい。
まず、親しいベトナムの友人が語ってくれた話から始めよう。ハノイ生まれの彼女は、アメリカとの戦争が北ベトナムに襲来した一九六五年には小学三年生で、終結した一九七五年には大学四年生であった。「北爆」が始まった時には、母親の職場があったフーリー(Phu Ly)の小学校に疎開した。フーリーはハノイから南へ五〇キロはどの町である。「北爆」がない時期には一時的にハノイ郊外の小学校に戻った。しかし戦争がはげしくなると再びフーリーに移り、中学、高校とそこで過ごした。父親はジャーナリストで南ベトナムに行っていた。小学生の時などは、母親が月に一度くらい、一〇キロ離れている疎開先に会いに来てくれた。ハノイの大学に進学したが、一九七三年まで学校はホアビン(Hoa Binh)に疎開していた。親元を離れて過ごさざるをえなかったのが一番つらい戦争体験だったという。米軍機の轟音が聞こえたし、夜になるとフーリーの町を爆撃する火が見えた(一九六六年末にアメリカの記者ソールズベリはこの町を通過し、「もはやフーリーの町は存在せず、みんななくなってしまって、国道沿いに建物の廃墟だけが残っていた」〔ソールズベリ 一九六七〕と記録している)。しかし幸いなことに、頭上に爆撃を受けたことはなかった。その彼女によれば、最近の、特に刷新(ドイモイ)以後(市場原理と外国資本を積極的に活用した経済改革のこの十余年間)に育った若い世代に、どのようにベトナム戦争を伝えてゆくかが大きな社会問題となっていると言う。その一つの事例として、ある新聞の世論調査で、一九七五年四月三〇日のサイゴン解放の時、無血降伏した南ベトナム(サイゴン)政権の責任者は誰か?との設問に対して、ズオン・ヴァン・ミン(DuongVan Minh)と正解を答えられたのはごく少数で、ゴ・ディン・ジェム(Ngho Dinh Diem)との回答が多かった事実を紹介してくれた。
ジェムは、本書でも後述するように、一九五四年から六三年までの間アメリカが南ベトナムで頼りにした唯一の人物であり、アメリカ=ジェムの体制こそがベトナム戦争をこの地域に導き入れた。他方、南ベトナム政府軍のズオン・ヴァン・ミン将軍は、一九六三年のジェム政権打倒のクーデターで活躍した人物であり、一九七五年春の大団円では、解放軍のサイゴンへの無血入城を迎えた敗軍の将軍としても有名である。したがって、南ベトナム政府のボスだったこの二人の人物をきちんと見分けておくことはベトナム人の常識にちがいない。ところが、これほど初歩的な事柄がなぜ若者に伝わらないのか。
その後、老若様々な多くのベトナムの友人と話してみて、筆者はある一つの傾向に気がついた。戦場に行き、生死を顧みず勇敢に戦った人たちであればあるほど、また、勇敢なるがゆえに過酷な戦場に耐え抜き、瞬時の生死の暗転の中で常時緊張を強いられ、殺害と虐待の場に立ち会わざるをえず、襤褸(らんる)と化した肉片が飛び散った場をくぐり抜けざるをえなかった彼らの体験は、平和な時代の一家団欒の、あるいは教室の、あるいは逢い引きの会話の素材として、振り返られるにふさわしいものであるわけがなかった。人の情として忘れ去ってしまいたい、再び起こすほどに人間は悪魔になれはしないであろうから、敢えて封印しておきたい……。
意外に聞こえるかも知れないが、家の中で父親が戦場のことをしゃベるのを聞いたことがない、と語るベトナム戦後世代は少なくないのである。戦場の記憶は移ろい易いからではなく、傷は深く、忘れようにも忘れられないからである。
次に筆者の経験について触れておこう。外国人が、戦争の時の様子をかつての現場に立ってインタビューしたとしよう。ベトナム人は、襲来してくる米機をどうやって迎え撃ち、そのまき散らす弾丸をどう避けたか……、母親ならば、子供たちをどう守ったか……を語ってくれるだろう。ジャングルの中で米兵とどう遭遇したか、巧みに渡り合って、どうやって敵兵を消滅させたかも、語ってくれるだろう。シャツを脱いで、体に残る傷を見せてくれるかも知れない。もう十数年前になるが、アメリカ兵ならびに韓国兵と解放戦線兵士とのかつての激戦の地トウイホア(Tuy Hoa)で、筆者は実際にそうした青年に会ったことがある。彼の小柄な背中から腹にかけて、たすきを掛けるように深く肉がえぐれていた。指で触ると、血が滲み出てきそうだった。
体験者の人柄にもよるが、手柄話としてではなく、謙虚に事実に即して仔細に看ることのできる人も少なくないように思う。それでもなお、外国人によるインタビューの限界は明らかだ。簡単に言えば、彼らにとって傷が最も深く、忘れようにも忘れがたいと思われる事柄を聞き出せない、つかみ取れていない、という外国人としてのジレンマを感じざるをえない。戦争に耐え抜き、アメリカを撃退したベトナム民衆の「英雄的」イメージは補強され、事例もより多く収集されはするが、その彼らの「英雄性」の源泉がリアルに見えてこないのである。
そこで筆者はこの本を準備する過程で、一つ.の方法を実験してみた。①インタビューを筆者がやるのではなく、ベトナムの友人に頼む。②記者や研究者による聞き取りとしてではなく、茶飲み話のついでに聞いてもらう。メモはその場で取らず、後で要点をまとめて記録してもらう。③つまり、体験者の日常の率直なところを聞き、記録するように心がける。こうして試みに十数件の聞き取りを入手した。すると興味深いことに、筆者自身が集めた内容とは明らかにちがう傾向が読みとれた。戦場体験を共有している人同士の問では、外国人には語らないようなことが、結構話題になっていた。これらの人々の学歴、戦歴、戦場、兵種、階級、除隊後の仕事などは様々だが、どの記録にも共通する内容が二点あった。
一つは、戦争は怖かった、特に最初の頃の戦場では言葉にならない恐怖を味わった、とすベての人が語っている。経験を積んでからも、死と生の分かれ道は瞬時の差であり、いつも死と隣り合わせだったというのが皆の実感であった。二つには、戦場にいたあいだヰ、腹が減ってしかたがなかったと多くの人が語った。そこで、幸運にも肉をいっぱい食べるチャンスがあった兵士などは、やけに詳しく嬉しそうに肉のことを語っている。
筆者が特に関心を持った話の中に、こういうのもある。戦場が怖くて脱走したくてしょうがなかったが、もし逃げ出して村に戻ったりしたら、村中の人たちに非難されたり、笑い者にされたりして、「一人前の男」として生きてゆけなくなってしまうから、そのことの方が怖くて、しかたなく「英雄」として(名誉の戦死をして)村に戻るまでがんばるしかなかった、という告白である。そして幸運にも彼は戦い終わって村に生きて戻ることができたのである。この告白は、「村八分」への恐怖とも、また村落を基礎とした農民の結合意識が抗戦力の形成に寄与している側面とも、読み取れる。また、やや深読みすれば、粋がって見せた「男らしさ」の涙ぐましい意地みたいなもの、つまり戦争における男・女役割分担のベトナム的な表現を考察するヒントを与えているかも知れない。
こうした日々の些事とたじろぎの正直な吐露は、ごく平凡な民衆像を飾り気なく表現している。さらにまた、彼らの抵抗の日常性と持続性、一言で表現すれば、しぶとさの源泉を究明する糸口がそにあるように思えるのである。体験者であり、作家であるパオ・ニンが、ジャングルの闇と探さと解放軍戦士のたじろぎを敢えて描こうとしたのも、そのためであったのではないか。
ゲリラ戦争
そして、こうした日常性の中から生まれるしぶとさこそ、超近代的軍事技術を総動員してやってくるアメリカと雌雄を決する際に、決定的な要素として機能したものに他ならない。
しかもアメリカ兵が最も理解できなかったのが、戦場におけるベトナムの兵士と農民のこのしぶとさであった。アメリカ兵は、貧弱な体格と粗末な武器しか持たないベトナム人の強さに驚く。アメリカ兵は彼らを「ベトコン」と呼び、「奴らはいったい何者であるか」を問い続け、「われわれとは死生観も違う別の存在」と納得するにいたる。だが、「ベトコンは死をも恐れない」というアメリカ兵の間に広がった神話は、敵味方を越えた軍人同士の畏敬をはぐくむものではけっしてなかった。それどころか、「死を恐怖もしない、人間の感情を持ち合わせていない野蛮人」に対するアメリカ兵の蔑視と恐怖をなおいっそう倍加させ、より残酷な虐待を準備させることになったのである。アメリカ兵のベトナム人観については後に述べるが、アメリカ兵は、一般的に言って、ベトナムの農民たちと農民出身の兵士たちの、戦場におけるたじろぎとしぶとさを感知できるほどには、彼らに人間的な共鳴を感じていなかった。アメリカの仕掛けたベトナム戦争はそうした大きな構造の中で軌道に乗り始め、一貫して展開したから、戦場――南ベトナム・北ベトナム・ラオス・カンボジア――における人的・物的被害は徹底的に壊滅的であった。そしてまた敵・味方双方の心の傷、言いかえれば、生き残った人々――ベトナム・カンボジア・ラオスの民衆ばかりでなく、アメリカの民衆さえも――の戦争後遺症は不可避的に深く長く続かざるをえない。
ベトナム戦争にこのように接近してみようと筆者なりに工夫するのは、この戦争がゲリラ戦としての本質をもっているからである。ニクソン(R.Nixon)、フォード(J Ford)両大統領に大統領補佐官ならびに国務長官(一九六九~七七年)としてつかえたヘンリー・キッシンジャー(H.Kissinger)は、よく知られるように、末期のベトナム戦争政策の決定に重要な役割を果たした人物である。その彼もホワイトハウスを去って後に、アメリカはベトナムでゲリラ戦争に負けたのだ、と語った。そこから彼は、ゲリラ戦争を回避するには先制攻撃と経済援助によるしかない、との教訓を引き出している。
この点について、筆者は一九九五年の小論ですでに触れた。同時に、ベトナム側のゲリラとしての抗戦力形成の特徴を分析して、「最先端的・超破壊的な兵器体系と戦略戦術に対峙し刃向かったのは民衆的決起であり、戦闘員が同時に生産者・生活者であるという日常生活ならびにその環境としての自然に根を張った持続的な戦闘力であった」と、簡潔に述べた〔吉澤 一九九五〕。
巨大な経済力と最先端軍事技術に対決したのが日常生活と自然に根を張った持続的な民衆の戦闘力であったとは、面妖な話である。しかもこの争い、最後には前者が「負け」て後者の方が「勝った」。これがちょっと言い過ぎであるなら、前者は「勝てず」、後者は「負けなかった」のだ。信じがたいことだが、ベトナム戦争の推移を研究してみると、そう考えないとつじつまが合わないところが出てくる。
キッシンジャーは、悔しげだが、その点を「ゲリラ戦争に負けた」と語っているのである。戦争を遂行した責任ある人の分析であるから、この言葉の意味は重い。そこで本書では、政策決定者に関する分析としてだけではなく、戦場に立たされた双方の民衆に視点をすえて、ゲリラ戦争としてベトナム戦争を考えてみたい。ベトナム戦争の本質=ゲリラ戦争という理解に立ってこそ、この戦争の激化の歴史的過程を分析し・再構成することができ、この戦争がもたらした大きな被害と傷の深さを正確に計ることができるであろう。そしてさらに、この点が大切だと考えるのであるが、それぞれ自らをアメリカの 「国益」、あるいはベトナムの「救国」の枠内に閉じこめないで、互いに「国」の境界を乗り越えた民衆の地平において、この戦争のもたらした意味を全体として吟味できるのではなかろうか。
『ベトナム戦争』の引用・参照文献
参考資料
※本書で引用したり,参考にした諸資料のすベてを網羅している.末尾の数字は,本書掲載ページを示す.
く新聞、雑誌〉
『朝日新聞』3,123,204,206,207,249
『産経新聞』204
『毎日新聞』120,122,123,204
『現代の眼』137
『世界』87
Vietnamese Studies 45
〈著作(日本語)〉
アジア・アフリカ研究所(編) 1970,71:『資料・ベトナム解放史』第1・2・3巻,労働旬報社 15,45,81,99,198,230
アトキンソン,リック 1995:『彼らはベトナムへ行った一陸軍士官学校 ’66年クラス』(平賀秀明訳)上・下,新潮社(新潮文庫) 20,42,66
石川文洋 1986:『戦場カメラマン』朝日新聞社(朝日文庫 )3,188,243
1988:『ベトナムロード』平凡社(後に平凡社ライブラリー) 208
NHK特別報道班1965:『4ンドシナの底流』日本放送協会 123
エルズバーグ,ダニエル1973:『ベトナム戦争報告』(梶谷善久訳),筑摩 書房 22,127,221
大森 実(監修)1965a:『泥と炎の4ンドシナ』毎日新聞社 123,211
1965b:『北ベトナム報告』毎日新聞社 123,124,126,135
岡村昭彦 1965:『南ベトナム戦争従軍記』岩波書店(岩波新書)53
1966:『続南ベトナム戦争従軍記』岩波書店(岩波新書) 191
小倉貞男 1992:『ドキュメント ベトナム戦争全史』岩波書店 25,34, 44,233
小田 実 1995:『「ベ平連」・回顧録でない回顧』第三書館 130
オブライエン,ティム 1990:『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳),文芸春秋(後に文春文庫)243
1994:『ニュークリア・エイジ』(村上春樹訳),文芸春秋(文春文庫)242
開高 健 1965:『ベトナム戦記』朝日新聞社(後に朝日文芸文庫)IO3, 213,214,215
川本邦衛(編) 1974:『南ベトナム政治犯の証言』岩波書店(岩波新書) 46
グエン,フー・クオン 1971:「アメリカの『特殊戦争』(1961~65年)」〔アジア・アフリカ研究所編1971第3巻〕所収 67
陸井三郎(編) 1969:『資料・ベトナム戦争』上・下,紀伊国屋書店 82,87,137,158,160,163
(編訳) 1973:『ベトナム帰還兵の証言』岩波書店(岩波新書) 216,238,244,243,246,247,233,262,263
クレア,マイケル 1998:『冷戦後の米軍事戦略一新たな敵を求めて』(南雲 和夫/中村雄二訳),かや書房 55
シーハン,ニール 1992:『輝ける嘘』(菊谷匡祐訳)上・下,集英社 27, 67,70,73,74
清水知久 1987:『ベトナム戦争論集』私家版 239,268,270
芝田進午 1969:『ベトナム日記-アメリカの戦争犯罪を追って』新日本 出版社 177
ジュダラリス,マルセル 1966:『北爆-ベトナム戦争と第7艦隊』(松尾邦 之助訳),現代社 IO7
ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)編 1979:『ベトナム戦争と生態 系破壊』(岸由二/伊藤嘉昭訳),岩波書店 200,201,202,203
ソールズベリ,ハリソン・E 1967:『ハノイは燃えている』(朝日新聞外報 部訳),朝日新聞社 6,140,153,154,155,156,164,182,183
チョムスキー,ノーアム 1975:『お国のためにⅠ ペンタゴンのお小姓た ち』(いいだ・もも訳),河出書房新社 130,141,147,185
ドール,ロバート・F. 1990:『ベトナム航空戦――米軍エア・パワーの戦い』(難波鮫訳),大日本絵画 144,132
中村梧郎 1983:『母は枯葉剤を浴びた』新潮社(新潮文庫)43
1995:『<グラフィック・レポート>戦場の枯葉剤一ベトナム・ アメリカ・韓国』岩波書店 43
ニューヨーク・タイムス(編)1972:『ベトナム秘密報告』(杉辺利英訳)
上・下,サイマル出版会 34,37,39,80,IOO・1Ol,IO2,IO4,IO5,
106,108,1IO,111,112,115,116,117,118,120,132,136,137,139,140,174,220
野田正彰 1998:『戦争と罪責』岩波書店 250,251
ハーシュ,S. 1970:『ソンミ』(小田実訳),草思社 238,248,255・256
パイク,ダグラス 1968:『ベトコン―その組織と戦術』(浦野起央訳)・鹿 島研究所出版会 220,221,224,231,232,233
パオ,ニン 1997:『戦争の悲しみ』(井川一久訳),めるくまーる 5,130
ハルバースタム,デーヴィッド 1968:『ベトナム戦争』(泉鴻之・林雄一郎 訳),みすず書房(新装本『ベトナムの泥沼から』1987)27,29,33,36,38,39,41,44,65,67
1976:『ベスト&プライテスト』(浅野輔訳)3,サイマル出版会 86,IO9,1IO,120
ビック,トゥアン 1992:『郁子の森の女戦士』(片山須美子訳),穂高書店 44
ファノン,フランツ 1996:『地に呪われたるもの』(鈴木道彦/浦野衣子訳),みすず書房.元の訳本は,『フランツ・ファノン集』(海老坂武/加藤晴久/鈴木道彦/浦野衣子訳)みすず書房,1968 57,59
フィグレー,C・R・(編) 1984:『ベトナム戦争神経症』(辰沼利彦監訳),岩崎学術出版 238
フォーク,R・A・(編) 1969:『ベトナムにおける法と政治』(寺沢一編訳)上・下,国際問題研究所 202
藤田久一 1995:『戦争犯罪とは何か』岩波書店(岩波新書)139
藤永茂 1974:『アメリカ・インディアン悲史』朝日新聞社(朝日選書) 267
古田元夫 1991:『歴史としてのベトナム戦争』大月書店 233
ベトナムにおける戦争犯罪調査日本委員会(編)1967a:『ジェノサイド(民族みなごろし戦争)』青木書店 158
(編)1967b:『ラッセル法廷』人文書院 157
(編)1968:『続ラッセル法廷』人文書院 157
ヘリング,ジョージ・C 1985:『アメリカの最も長い戦争』(秋谷昌平訳)上,講談社 IO9
ホメロス 1992:『イリアス』(松平千秋訳),岩波書店(岩波文庫 )246
本多勝一 1968:『戦場の村』朝日新聞社.後に『本多勝一集』10に収められる190・191,194,197・211,217,219,220,222,223,245
1969:『北爆の下』朝日新聞社(後に同書の前編は『本多勝一集』10に・後編は『本多勝一集』11に収められる)154,161,173,176,178,203
1973:『北ベトナム』朝日新聞社(後に『本多勝一集』11に収められる)161,162
1974:『ベンハイ川を越えて』朝日新聞社(後に『本多勝一集』11に収められる)179,18I
1994:『本多勝一集』10,朝日新聞社190,191,194,197,211,217,219,220,222,223,243
1995:『本多勝一集』11,朝日新聞社154,161,162,173,176,178,179,181,178(ママ),203
マクナマラ,ロバート・S 1997:『マクナマラ回顧録】ベトナムの悲劇と 教訓』(伸晃訳),共同通信社17,35,79,90,92,93
マクファーソン,マイラ 1990:『ロング・タイム・パッシング―ベトナム を越えて生きる人々』(松尾弌之訳),地勇社 1,2,228,239,273
松岡洋子 1964:『北ベトナム』筑摩書房 122
三島瑞穂 1989:『グリンベレーD446』並木書房 272
モーマイヤー,ウイリアム・W 1982:『ベトナム航空戦―超大国空軍はこうして侵攻する』(藤田統幸訳),原書房 144,145
森川金壽 1977:『ベトナムにおけるアメリカ戦争犯罪の記録』三一書房 157
吉澤 南 1987:『個(わたし)と共同性(わたしたち)』東京大学出版会 36
1988a:『ベトナム戦争と日本』岩波書店(岩波ブックレット) 16
1988b:「証言 戦争と平和一ベトナムの人々」,ベトナム戦争の記録編集委員会編『ベトナム戦争の記録』大月書店 63,196,232
1988c:「証言 ベトナム派遣韓国兵」,同上所収118
(監修)1990:『新聞集成 ベトナム戦争』上・下,大空杜120
1995:「ベトナム戦争」,『岩波講座 日本通史』第20巻(現代1),岩波書店11,233
〈著作(外国語)〉(中略)
〈映像資料〉
日本テレビ (NTV)「南ベトナム海兵大隊戦記」プロデュース:牛山純一, カメラ:石川文洋.全3部作中,第1部だけ1965年5月9日に放映された.しかし日本政府の「残酷すぎる」との干渉が入り,続編は放映中止となった.1988年になって日本テレビ系で全編が放映された.53,252
NHK-TV 「NHKスペシャル 我々はなぜ戦争をしたのか」1998年8月、2日放映.148
NHK-BS 「映像探検20世紀 ベトナム・ゲリラの食卓」1996年5月19日放映.194
NHK-TV 「NHKスペシャル 戦争を記録した男たち」1991年7月17日放映.260
映画「プラトゥーン」(Platoon) 1983年.監督オリヴァー・ストーン(0liverStone).241
映画「無人の野」(Canh Dong Khoang)1979年.監督ホン・セン(Hong Sen).259
オーラル・ヒストリーの実践と同時代史研究への挑戦――吉沢南の仕事を手がかりに、【特集】社会科学研究とオーラル・ヒストリー(3)大門 正克、大原社会問題研究所雑誌 No.589/2007.12
(PDF版)
はじめに
1 吉沢南の仕事――『私たちの中のアジアの戦争』
2 1980年代後半における歴史学とオーラル・ヒストリー
3 2000年代における歴史学とオーラル・ヒストリー
おわりに
有志舎の日々: 吉沢南先生のこと
『私たちの中のアジアの戦争―仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南著、有志舎
2010年5月1日
2010/04/28
有志舎の日々:『私たちの中のアジアの戦争』
▽2014.11.05UP
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-13dc.html
1960年代から1970年代に「ベトナム反戦」を主張した人は数多い。
そのときの「ベトコン」という言葉は、覚えやすかったが、「南ベトナム解放民族戦線」か「南ベトナム民族解放戦線」という論争があった。
大手一般紙なども後者の間違いを流していたことを覚えている。
さて、その「反戦」を主張した人たちも、社会的には、ほぼ定年を迎えている。
そこで、今のベトナムに必要な支援をいっしょに考え、協同の行動を行う人をもとめたい。
▽ライフラインとしての「上下水道」建設を支援できないか。
日本の水供給システムは、世界一の「安全・安心・安定供給」力があるが、ODAとして支援できないか。
日本では水事業の大半は、「公務員」が担っているが、日本で「赤字」をつくるより海外、特にベトナムに出て行って、支援できないか。
旅人として、「水をそのまま飲めない」状況はなんとも、解決してほしい。
▽電力は、いまは水力発電と火力発電であるが、「停電」がある。
世界中から「原発」を受け入れているベトナムで、他にないか、だれか考えてほしい。
▽日本の新幹線を、「ホーチミン・ハノイ」間につくることが議論されている。
鉄道を核とする交通システムの確立について、知恵の協力ができないか。
▽ベトナムは若い国で、戦後生まれ(1975年)が過半数を超えたという。しかし、ハノイの都市部では、高齢者が増えているのを垣間、見えている。
これからの「ベトナム式高度成長社会」のもとで、都市への労働力の集積と比例して、かならず「核家族化」が進行していく。
またそのもとで儒教社会を超えるスピードで、「高齢化」すすみ、高齢者施策がもとめられてくるはずだ。
▽閑話休題
バイクが滝のように流れるベトナムの道路をどのように渡っているか、おもしろい動画がある。
私たちは、「ベトナムのおばさん」の横にくっついて渡るよう、ガイドさんから教えられたが。
■車にはねられないのが奇跡と思えるベトナム・ホーチミンの横断歩道(動画)
http://labaq.com/archives/51531057.html
▽追記:小松みゆきさん原作の本が映画になるというビッグニュース (2014.09.24)
http://okina1.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-b7a5.html
「さよなら原発」という声に賛同するものとして、メールで流れている以下のニュースはいかがなものか。
私の知人も、以下のような記事を引用して“ベトナムに郷愁をもつ日本人に、「反原発」を”と訴えている。
「朝日新聞」の「私の視点」欄(10月7日付、朝日朝刊)に載ったベトナム原発輸出への危惧の記事だ。
“さらにベトナム反戦運動を推進した日本の団塊世代には、帝国アメリカに勝利したベトナムを理想化し、強い思い入れを描いている人が多い。この思い入れは厄介なことに、権力をふるう「普通」の一国家でしかなくなった今のベトナムを見る目を曇らせている。彼らは「原発輸出」を試みる日本政府には批判的だが、ベトナム政府を批判する言葉を持たない”。
ハノイ市内の公園で(左がホーおじさん。右は不明)
私も昨年の11月にハノイを訪問したが、同じホテル(ニッコーホテル)には数日前に菅直人首相も泊まっていたと聞いた。その時は、友好訪問だと思っていたが、「3・11」以後の状況の中で、「原発輸出外交」を行っていたということを知って、がっくりきた憶えがある。
日本における「さよなら原発」と同じように、ベトナムでも中国でも「さよなら原発」の声が高まることと、アジアを大事にする日本の政治家たちにも考え直してほしいと思う、今日この頃だ。
ベトナム原発に協力表明=民主・仙谷氏
【ハノイ時事】ベトナム訪問中の仙谷由人民主党政調会長代行は24日ハノイ市内の会合で、東京電力福島第1原発事故にもかかわらず、ベトナムが日本からの原発輸入方針を堅持していることについて「日本のエネルギー政策にとって非常に心強い。周辺のインフラ整備も含めて、できるだけ協力したい」と表明した。(2011/10/24-16:39)
原発輸出は当面継続=「国家間の信頼留意」-政府答弁書【時事】
政府は5日の閣議で、原子力発電所の海外輸出について「諸外国がわが国の原子力技術を活用したいと希望する場合には、相手国の意向を踏まえつつ、世界最高水準の安全性を有するものを提供していくべきだ」として、当面は継続する方針を示した答弁書を決定した。自民党の小野寺五典衆院議員の質問主意書に答えた。 答弁書では、各国と進めてきた原子力協力について、「外交交渉の積み重ねや培ってきた国家間の信頼を損なうことのないよう留意し進めていく」とし、国会に提出しているヨルダン、ロシア、韓国、ベトナムとの2国間協定について「引き続き承認をお願いしたい」と理解を求めた。(2011/08/05-16:06)
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ヴェトナム新時代――「豊かさ」への模索
坪井善明著
岩波新書
岩波書店
2008年8月
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ヴェトナム――「豊かさ」への夜明け
坪井善明著
岩波新書
岩波書店
1994年7月 |
ヴェトナム現代政治
坪井善明著
四六判
東京大学出版会
2002年2月
(未読)
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▽『ヴェトナム新時代』の奥付より
1948年埼玉県生まれ
1972年東京大学法学部政治学科卒業
1982年パリ大学社会科学高等研究院課程博士
1988年に,渋澤・クローデル賞,1995年に,アジア・太平洋特別賞受賞
現在一早稲田大学政治経済学術院教授
専攻-ヴェトナム政治・社会史,国際関係学,国際開発論
ヴェトナム新時代――「豊かさ」への模索、2008年8月、岩波新書、岩波書店
私が読んでいるあるメーリングで「現代のヴェトナムをするためにお勧めしたい本」ということで、『ヴェトナム新時代――「豊かさ」への模索』(坪井善明著、2008年8月、岩波新書、岩波書店)が紹介されていた。
簡単な著者紹介として、1960年代末の「べ平連」に参加した人物とあり、早速、図書館から借りて読み始めた。
著者は「はじめに」で以下のように書いている。
《本書は、一九九四年に上梓した『ヴェトナム「豊かさ」への夜明け』の続きとして、ヴェトナムの九四年から二〇〇八年までの現況と今後のあるべき体制について記している。四〇年付き合ってきたヴェトナムが、今「新時代」に入ってきているのを肌で感じている。この時点で、自分の見方と今後の指針を示しておきたかった。ヴェトナムに関心のある人びとに、何らかの参考になれば望外の喜びである》
まずはこちらの不勉強ぶりを謝っておきたいが、前著があることも不明だった。しかし読み始めて、「第6章 ホーチミン再考」にたどりついて、40年ほど前から知りたいと思った「ホーチミン」の生き方、理念について、これほどまでに的確に分析した本はないのではないかと思った。
著者は、共和国の思想・イデーをもった「共産主義者」としてのホーチミンを描き出している。
彼がソ連や中国にいて活動していた時に(その時代の行動は、いくつか本が出ていると本書で紹介している)、「このような国にしてはならないと思ったのではないか」、と考えていた私にとって、強烈な共感・共鳴心がわいてきたのだ。
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ホーチミン廟(2009年撮影) |
ホーチミンの家(ホーおじさんの家)(同左) |
ハノイの「ホーチミン廟」を訪問したときに感じた違和感、それと対比したつつましい政務した家、どちらが本当の「理念」なのか、個人的に怒って見ていたことを思い出す。
ヴェトナムの党内での「ホーチミン思想」の描き方の変遷よりは、著者のホーチミンの足跡をたどり、「フランス共和国精神」と独立宣言に入れた「アメリカ合衆国憲法」の「幸福追求権」の理念の分析は、若い世代に読んでほしい。
独立・自由・幸福の意味
この「独立」は、長年のホーの夢である。ヴェトナム民族がフランス植民地から解放され独立国となることを意味している。ただし、従来のヴェトナム史が掛り返したように、中国の脅威からヴェトナムのアイデンティティを守るために「独立」した、という古い意味での「独立」ではなかった。ヴェトナムは中国の宋、明、元、清の各王朝の侵略や支配に対して、軍事的な反乱を起こし、中国軍を敗退・撤退させたという歴史を持っているが、結局、「独立」を達成した後は、中国を模倣した王朝体制を敷いただけだった。しかし、今回の「独立」は、独立した後に、近代的な主権国家という「独立国」を建設するものだった。世界の列強に伍して生きていく力を持つ主権国家の建設を「独立」に込めたのである。それは単に制度としての「民主共和国」だけではなく、その独立国家を担う新しい人民のイメージを構想していたのである。
「自由」はフランス革命の標語「自由・平等・博愛」の影響と、アメリカ合衆国の「生命・自由・幸福を追求する権利」の影響を受けていることは自明であろう。単に国家が独立して主権を持って国際社会で自由に発言・活動するだけでなく、国民一人ひとりが自由を謳歌しなければならないことを意味している。この時、自由を謳歌する国民の一人ひとりが、「共和国」という秩序を下から作る主体となることを暗に要求されていた。責任を伴って正しい判断を下すことの出来る「個人」の析出を求めている。そのような個人を生み出す教育と、それを保障する政治的装置を伴うものこそが、近代的な国家なのである。「共和国」とは、民主主義に自由を加味したものなのだ。
最後の「幸福」は、四五年九月の独立宣言にも触れられているように、アメリカ合衆国憲法の「幸福を追求する権利」からの影響である。アメリカ合衆国憲法こそ、憲法の中に「幸福を追求する権利」を初めて明文化したものである。「幸福」の内容は多義的で一つには定まらないが、少なくとも、近代国家のもとで個人としての「幸福」を各自が追求するという意味では、極めて「近代的」な概念であろう。ヴェトナムの歴史は多くの中国からの侵略に対する闘いと、洪水や早魅など数限りない自然の脅威に対する闘いに明け暮れた歴史であった。不幸や不遇という概念は一般的に広く行き渡っていて、それに打ち勝つ歴史がヴェトナムの特徴であり、天が与えた試練を乗り越えるという意味では勇敢で英雄的だった。だが、それはあくまでも受動的なものだった。一人ひとりに「幸福を追求する」権利があるし、幸福を積極的に追求しなくてはいけないというメッセージは、極めて新鮮なものとして受け止められたのである。
国家体制の基本となる憲法では、ホーはフランス共和国とアメリカ合衆国を参照して、「ヴェトナム民主共和国」を構想したと思われる。そこには、共産主義者の顔よりも、共和主義者・民主主義者の顔がより強く前面に出ている。
一九四五年九月という時点でヴェトナム民主共和国の独立を宣言したが、ヴェトナムを取り巻く国際的な力関係は連合国が圧倒的な地位を占めていた。「民主共和国」を認知してもらうために、共産主義者の顔を消すような大胆な行動をホーチミンは取る。四五年二月、ホーは共産党を解党するという思い切った処置をした。もちろん、実体としての共産党組織は温存していたので、-種の「偽装解散」と言えるのだが、「民主共和国」の独立を認知してもらうためには、「党派の利益」を超えて、「国民の利益」を優先させるという論理を選択したのである。この点にも、共和主義者としてのホーチミンの考えの一端が覗いている。(p.196-p.198)
編集子の数多くの自問・疑問――ヴェトナムの歴史、中国との関係、人民の形成史、多様な民族の存在、アメリカとの戦争、ポート・ピープル問題、カンボジア侵攻、ドイモイ政策の出発を担った人・形成史、米越国交正常化の実現、ヴェトナム国内企業の形成、日本のODA、ヴェトナム共産党の特徴などなど――縦横にわたって答えてくれている。
現代のヴェトナムを理解するための「総合的人文科学書」だ。
先に紹介したテーマの位置を確認するためにも、以下に目次を掲載しておきたい。
▽出版社の扉裏紹介文
ドイモイ(刷新)政策採用から二十余年。米国と国交を正常化し、ASEANやWTOへの加盟も果たして国際社会への復帰を遂げた今、ヴェトナムはどこ向かっているのか。
未曾有の戦争の後遺症を抱えながら、一方でグローバル化の波にさらされる中、ひたむきに幸福を求める人々の素顔に迫り、日越関係の明日を展望する
目 次
はじめに
第1章 戦争の傷跡
1 ヴェトちゃんの死
2 枯葉剤をめぐる諸問題
3 枯葉剤被害者の第三世代
4 身寄りのない老人たち
5 ヴェトナム戦争とは
6 その他の後遺症
第2章 もう一つの「社会主義市場経済」
1 ドイモイ政策の二〇年
2 ITの普及
3 この国の「豊かさ」の条件
第3章 国際社会への復帰
1 国際的孤立
2 ASEAN加盟
3 米越国交正常化の実現
4 WTO加盟の条件
第4章 共産党一党支配の実相
1 ヴェトナム共産党の特徴
2 共産党の危機感
3 独特の国家機構
4 変わる指導部
第5章 格差の拡大
1 格差と平等意識
2 非党員でも金持ちになれる
3 疲弊する農村部
4 圧迫される少数民族
第6章 ホーチミン再考
1 愛国者ホーチミン
2 現代ヴェトナム社会におけるホーチミン
3 ホーチミン思想
4 ホーチミンの「共和国」
第7章 これからの日越関係をさぐる
1 グローバル化の中で日本の位置は
2 深まる交流
3 さまざまな問題点
4 今後の課題
終章 新しい枠組みを
1 政治体制の変革
2 工業化への道
3 日先の苦難を越えて
4 小田実の死
あとがき
ヴェトナム史略年表
主要参考文献
ヴェトナム――「豊かさ」への夜明け、1994年7月、岩波新書、岩波書店
▽出版社の扉裏紹介文
ドイモイ(刷新)政策の採用で、急速に変容しているヴェトナム。現地で暮らした体験や人びととの交流をふまえて、「変わりにくい部分」としての中国やカンボジア等との関係、共産党・国家・社会の特徴、戦争の傷跡を、そして「変わりつつある部分」としての対外開放、経済発展を多面的に描く。ヴェトナム理解のための待望の書。
▽著者が「はじめに」で書いた文章
本書は、一九八九年から九四年の五年間、ヴェトナムに暮らしたり訪ねたりした体験をもとに、「ヴェトナムの社会や国家の特徴は何か、どこからどこへと変化しているのか」を主題にしている。ただし、たんなる体験記ではなく、日本やフランスで読んだ文書や文献から学んだことと、ヴェトナム社会で暮らして理解したことを、私なりに総合して、私自身の肉声で、できるだけ〝客観的な″ヴェトナムの全体像を措こうと努めた。
もちろん、不勉強で間違いを記述している箇所もあるかもしれない。不完全な部分は読者の方からの御指摘を受けながら、後日修正していきたいと願っている。
目 次
はじめに
第一華 中国の影
l 距離の近さ
2 中越貿易と華僑
3 詩 の 国
4 「南の中華帝国」
5 親近感と反発と
6 中越戦争
7 国交正常化
第二章 南と西の隣人たち
――チャンパ、カンボジア、ラオス
1 多様な民族
2 南 進
3 チャンパ
4 クメール
5 ラーオ
第三章 ヴェトナム社会
1 識字率の高さと長寿
2 ヴェトナム社会の特徴
3 二〇〇〇年の共存
4 地縁・血縁
5 時の社会
6 外国人に対する猜疑心と不信感
7 小商人世界
第四章 党と国家機構の特徴
1 ヴェトナムがアメリカに勝ったとは?
2 貧しさを分かち合う社会主義
3 ホーチミン
4 ヴェトナム共産党
5 国家磯構の特徴
6 世 論
第五章 ドイモイ政策
1 グエン・スアン・オアイン
2 試行錯誤
3 ドイモイヘの道
4 政治民主化を争点として
5 ドイモイ政策の展開
第六章 戦争の傷跡
1 すさまじい物的破壊
2 人体に与えた傷
3 南北格差
第七章 経済発展の可能性
1 発展戦略をめぐる争い
2 三つの切り札
3 アジアの社会主義
4 発展を阻むもの
終章 援助のあり方
あとがき
主要参考文献
ヴェトナム史略年表
information新着情報
- 2014年10月31日
- 下山房雄の現代社会論をup。
- 2014年10月30日
- 五十嵐仁の現代政治論をup。
- 2014年10月20日
- 「ベトナム反戦のページ」をup。
- 2014年10月10日
- ようこそ“知っておきたい「現代政治・戦後史」”ページをオープン。
- 2013年03月15日
- 手島繁一のページをUP。
-
GENDAI ROUDOUKUMIAI KENKYUKAI 店舗情報
手島繁一のページ
現代労働組合研究会のページ
http://e-kyodo.sakura.ne.jp/roudou/111210roudou-index.htm
2014-10-16:「10・21国際反戦デー」北海道街頭行動を開催します。
「国際反戦デー」は、1966年10月21日、アメリカの北ベトナムへの爆撃中止を求め、「反戦」を全世界に呼びかけたことに始まります。
「国際反戦デー」は今年で49回目となりますが、世界中の人々が平和を願い訴え続けてきても、未だに地球上から、戦争はなくなりません。
シリアやウクライナでは、何の罪も無い、多くの市民が犠牲となっています。また東アジアにおいても依然として、軍事的緊張が高まっています。
こうした状況の中、安倍晋三首相は、憲法解釈の変更で「集団的自衛権」の行使を容認する閣議決定を強行し「実質的改憲」に突きすすんでいます。
世界で唯一の被爆国であり、憲法第9条を持つ日本が世界の先頭に立って地球上から核兵器の廃絶と戦争のない、平和な世界をつくることを訴えていきましょう。
日 時 2014年10月21日(火)18:00~19:00
場 所 大通西3丁目西側
集会内容 18:00~街頭宣伝行動(主催者挨拶、連帯挨拶)
18:30~デモ行進(大通西3⇒西2丁目線⇒南3条通⇒大通西4)