ようこそ、田沼肇のホームページへ。
「つよい人だった」そして「やさしい人だった」と誰もが言う。それは何故か?
20世紀の後半50年余をマルクス主義社会科学者として、平和と民主主義、人権擁護の活動を貫きたたかってきた田沼肇。もの心ついたころから戦争があり、敗戦間際になって、「これはおかしい」と自覚するまで「戦争は終わるものとは思っていなかった」と。それゆえに平和を希み、それを永久に実現するには何をなすべきかを考えたであろう。その人生の、思想の軌跡を追うのが「著作集」(DVD版)[別のページ]と「全活動」(書籍)[本ページ]の目的である。
DVD版は、全著作をI調査統計論 U階級構成論 V社会政策・労働問題一般 W労働運動論 X労働運動史 Y原爆被爆者問趨 Z平和・原水爆禁止運動 [大学・研究者・学生論 \時評など ]身辺断章の10項目に分類され、760ファイル(7,853ページ)を収録。
〔付・資料〕「福祉と人権を求める田沼裁判―重度心身障害者手当て受給資格認定を求めて」の訴訟資料、参考文献など108ファイル(1,113ページ)の貴重な記録も収めている。
書籍「仝活動」はI部として、田沼の著作・執筆物を年表風に処女作の1946年から2000年まで年代順に配列し、その時代背景を一般年表で対比できるようにした。
U部はその他の活動で「労組、民主的組織の講師・助言者活動など」「原水爆禁止・被爆者援護・第五福竜丸保存の活動」「日本フィル・日本フィル協会闘争支援」「平和と革新をめざす東京懇話会の活動」、そして学究の場であった法政大学の40余年の足跡をたどる。加えて活動場面ごとに田沼と共に活動し学んだ人たちの一文を挿入し、人間・田沼肇を理解できるように構成している。没後10年記念出版。読者の皆様の共感と未来への道標になるであろうことを願っている。
「DVD編集責任=藤新太郎 「書籍」編集責任=梅津勝恵
(『田沼肇全活動』より)
〒 180-0001
東京都武蔵野市吉祥寺北町1-6-16
田沼 祥子
◇企画:田沼祥子・木下悦子・藤新太郎 ◇編集・制作:インターネット事業団 ・飯島信吾 UP:2017年03月25日 更新:2017年04月01日 |
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田沼肇、没後10年。
この企画「田沼肇全活動」「田沼肇著作集」(DVD版)は、祥子夫人によって発起された。彼女自身、長年、編集に携わってきた者として培かわれた感性が衝き動かしたと思われる。
田沼肇は敗戦直後から20世紀の終わりまでの50数年、一貫してマルクス主義の立場で理論はもちろんのこと実践では平和と民主主義、人権擁護など幅広い運動の場で、人民とともにたたかってきた。専門は社会政策。
これまで学者・知識人にとっての「著作集」はめずらしいことではないが、本書のように「全活動」の記録というのは稀れなのではなかろうか。したがって(「著作集」DVD版と合わせて)企画の意図は、人間・田沼肇の特長を客観的にみることになる。
「全活動」の構成は大別して二つに分けた。理論分野に相当する「著作・執筆年表」をT部にし、その他の実践活動をU部とした。
T部は敗戦後まもない東京の焼野原の中で生活する人々の調査から始まる。その題名は『起ちあがる人々一壕舎生活者・浮浪者の実態調査』で、東京大学学生社会科学研究会の仲間とまとめあげている。それが田沼のスタートだ。弱冠20歳、1946年のことである。
その後、活躍の場をジャーナリズムに移し、戦前の進歩的ゆえに廃刊を余儀無くされた雑誌「学生評論」を復刊し編集人代表になっている。そして50年代半ばから60年代前半は、気鋭の論客の一人として執筆ばかりでなく座談にも数多く登場している。ある雑誌には当時、揶揄とはいえ「法大マルクス学派4人組」とイラスト入りで紹介されたこともあった。田沼の真骨頂の時代であろうか。
ちなみに、原稿や座談会・鼎談・対談など58年に44本、59年42本、60年45本、61年44本、62年39本と5年間は1年平均43本になる。たいへんなエネルギーだ。
U部は田沼の本領ともいえる運動の分野になる。ここでは田沼が運動に加わった年代順に配置した。戦後まもなく設立された民主主義科学者協会の活動(これは田沼の活動を記録した資科が乏しく[付記]にとどめた)から始まる。
(1)「労組、民主的組織の講師・助言者活動など」は、田沼のもっとも特長的な活動といえる。これは多岐にわたっていて、オルガナイザー的側面を垣間見ることができる。
(2)「被爆者問題」の田沼といわれ、また田沼の代表的な活動の一つ「原水爆禁止・被爆者援護・第五福竜丸保存の活動」である。特に原水爆禁止運動は世界情勢に左右されたり、日本の革新勢力の運動の統一がいかにむずかしいかを物語っていて、田沼が苦労したであろうことがうかがわれる。
(3)「日本フィル・日本フィル協会闘争支援」は、おおよそ交響楽団、音楽には無縁と思われる田沼が、日本フィル労組支援をしながら何か“人間らしさ”を求めて楽しんでいるように思われる。人間にとって文化・芸術の大切さを再認識したのだろうか。
(4)最後は「平和と革新をめざす東京懇話会の活動」で、これは田沼が生涯をかけていた統一戦線の運動だ。「人間講座」など独自に地道で基本的なことを大事に進めようとした矢先に難病にとりつかれ、無念の極みであろう。
さらに、職務になる法政大学での学究生活、学校での果たした役割をたどった。
各活動には同時期、田沼と共に活動した人、あるいは教えを受けた者の一文を挿入し、より理解度に厚みをもたせた。寄せられた方々に感謝申し上げる次第である。家族(夫人、子息)から寄せられた温かい文章は、人間・田沼肇を如実に語っている。
田沼肇は大丈夫であった。
2011・4・5(梅津勝恵記)